あの、、ワタクシ、、ニートなんです…

三十路、コミュ障、ニートの戯言。

靴下の穴の向こうにあるものタトゥーの向こうにあるもの

四柱推命で偏官持ちはモテるなどと書かれているが、まったく意味が分からんと思ってしまう偏官二つ持ちであるのだが、ふと思ったのが数年前に書き殴りした自分の日記を読んでも、何度も出てくるのが「ドキドキしなきゃ生きてる意味がない」とか「ときめきが重要」とかだった。
ひきこもりの分際で何言ってやがんだ、とも思わなくはないのだがとにかく自分がときめきを重視する人間であることに気が付いたし、それこそが偏官の正体なのではないか、と思ったのだ。
正直なところ、そんなに偏官の意味するようなタイプは好みではないし正官が二つでやっと偏官になるはずなのに、出会う男のタイプとして良さそうなのが正官であることも納得はしていない。
どう考えても自分の理想とするタイプは正官よりであるはずなのにな~と思ってしまうのだ。
ただ正直、この人生に置いてそれほど多くは起こらないはずのときめきを上手く乗りこなせない自分に気がつき、がっくりきたことも事実だし、あーもうときめきとか要らないんじゃないかなと思ったことも事実だ。
それと同時に正官のようなタイプが好きであるはず、と言いながら見た目が真面目そうな人で自分にとっていい男であった人がいたのだろうか?とも思ったのだ。
要するに私は人を見抜けないのだ、良くも悪くも。
何年も前さだまさしの「雨宿り」をラジオで聞いたとき「この曲を聞くと涙が止まらない」と言いながら紹介されていた。正直言ってその時の私にはこの曲のどこにそんな要素があるのか分からなかったのだが、あまりにも何度も聞くのでいつの間にかすっかり認識した曲となってしまったのだ。
そして私は無理、靴下の穴に寛容になれないと思った。だから結婚できないんだろうな~、とも。
いくら「もうひとつの雨宿り」に共感して泣きたくなったとしても、だ。
靴下の穴だけじゃないよ、タトゥーとかコミュ障とか極端に言えば顔が好みじゃないとかもそう。
なんで自分はこんなにときめかないんだろう?ときめきがあればもっと多分モチベーションにつながるのにとか、そもそもタトゥーが入った男多すぎるけど無理なんだよタトゥーだけはとか、もうずっとここ数ヶ月そんなことばかり思ってた。その逆も然りだ、イケメンはまず相手にされないとか傷つきたくないとか、そんなんばかり。
見抜けないのだ、靴下の穴の向こうにあるものやタトゥーや自分とはかけ離れた人の向こうにある
「そうじゃないかも知れないもの」を。
コミュ障だって同じ、イケメンだって同じ、タトゥーだって同じなのかも知れない。
コミュ障だからどう、イケメンだからどう、タトゥーがあるからどう、いつも服に穴が空いてるからどう、ってその先にあるものをそこで閉じてしまうからだめなのかな?ってふと思ったのだ。もちろんやっぱりタトゥーは好みではないし「生理的に無理」なものは、絶対に譲りたくはないが。
なんかもう何もかもが雪崩のようにぐちゃぐちゃになって、ごちゃごちゃして、あーもういいや。全部捨てようってなって。本当に自分にとっていいものを正しい目で見なくちゃいけないな、って思った。
夢を見続けていればそれでいいって思っていたところが、
玉手箱を開けてでも夢から覚めた方がいいって思うようになったのかな?自分でも何言ってるのか分かんないからこの辺でやめとこー。

でも正直な話

どうでもいい人には「寂しくなります」ってなんぼでも社交辞令が言えるのに、
真剣な寂しさを口に出して言えなかった。
あなたがいなくなったら、私寂しすぎるじゃん
ってどうしても言えなかった。
怖かったのかなーすべてが。
またあなたに会いたいって、そんなこと言えなかったもん。
だから本当の本当の私はとても天の邪鬼。
「そんなんじゃないわたし」があほみたいに多すぎるのはどうしてなんだろう?
私もあの人の事もこの人の事も誤解してるかな?
石橋を叩いて渡る方がいいのかな?
先走りして「気遣ってます」ってした方がいいのかな?
そんなんじゃないですって言えないんだよ。
どうでもいい人に愛想ふりまいたり
寂しいから誰でもいいやとかそんなこと意味ないって
分かってるはずなのに、どうしてこんなにうまく行かないんだろう?
自分のために生きるとか自分を磨くとか自分を幸せにするとか本当にそんなことがどんなことか分かんないや。
塩梅が分からない。
誰かのためになることをってした方がいいのかな?
そしたらまた押し付けがましくなるんじゃないかな?って思っちゃうんだろうな。
本当の気持ちを隠してる、その気持ちを知りたい人がこの世界にいるかどうかは分からないけど。
星の王子さまみたいに「大切なものを」見抜いてくれる人がいて欲しいのか、見抜けるひとになりたいのか多分そのどっちもだと思う。
でも本当はその大切なものをちゃんと表現できるひとにならなくちゃいけないと思う。
それはもう強制観念とかそんなんじゃなくて、心からの願い。絶対にそうできた方がいいから。
なんかなーこの一年間、それなりに飛ばしてきたと思う。
今までが冬眠から覚めない何がしかの生き物だったとしたら、本当に雪解け水に押し流された、くらいの変化をつけたと思う。
ただそんな勢いがあったとしても例えて言うならふらふらと水に流されているだけで、地に足なんかついてはいない。
私は意外にも地に足をつけたいんだなぁ、と思う。
もうどうしたら良いのか、分かんないや。

実は我々はコミュ照なんである

彼めちゃめちゃシャイなんですよ!
と言う紹介を受けたので、まあ私もそうなんですけど、、
と言ったらなぜか、あーそれはめちゃめちゃ分かってます。
とか言われたので、えー嘘?あなたと私の関係のどこにシャイ要素がありました?とめちゃくちゃ困惑した私。
この人との関係性の中でシャイ要素を微塵も自覚したことがないワタクシ、、泣かされたか怒鳴り合うような話し方になるか、常に常に緊張を強いられた関係しかなかったのに、いったいどこでシャイって分かります~!なんて言われることをしたのかまったく検討もつかない。
そんなこの人との関係性を緩和してくれたのは、、、、
そう彼に対してはそりゃあもう照れた、照れた、シャイだった。結果として可愛くない態度になったわけだが。
それがバレていたのか?私も何気に、
でも○○さんも実はシャイでしょ~?と言ってみたのだが
あ な た 分かってるでしょ そんな こと !!!
とすごい勢いで返されたので、えっ?と思ってしまった。
いやまさかそんな返事が返ってくると思ってなかったよ。
そして彼は言った。
めちゃくちゃ シャイ っす。と。
この人がものすごくテンパったときに私を「あなた」と言うのは分かっていたし、大したことない下ネタで顔を真っ赤にすることも知ってはいたが、ガチのコミュ障なんだなーと思っていたがゆえ、彼に対してはシャイと言う認識がなかったのだ。なんだよー、今まで気味の悪い薄ら笑いでさーっと去っていってたのとかもシャイだったわけ?
そうなんだー。この人に照れるとかいう要素があるのかーと思うとおかしくておかしくて、いやもうお願い私にいちいち緊張しないでくれますか、って気持ちになる。
安心してください、絶対にあなたのことは好きになりませんから!!と思う。
ただこの怒鳴り合いみたいになる、本当一日何度腹をたてるか分からんこの人にも良いところはあってそれは、
ドアを然り気無く開けて待つとか、そんなことなのだが、本当にそんなことができるのだから、もっと堂々としてほしいのだ。本当はそんなに無駄にカッコつけなくていいって分かってます?って言いたくなるのだ。どうせかっこよくないし、どうせそんなに仕事もできないでしょ?そんなに頑張らなくていいですよ、分かってます?あなたに必要なのは隙ですよ、隙!かわいげのある人になってくださいよ、って言いたくなる。そして、それって本当はいちばんなりたい自分じゃないかとも思う。
コミュニケーション障害なんて言うが、その実態は何パーセントの照れに支配されていることだろう?
恥ずかしいって気持ちこそが私の人生のすべてですよ、だからこんな人生なんですよ!っと、昨年末ある人に言ったが、もう少し自分に自信があったら、自分のことが好きになれたなら、、人生は大きく違っただろうなと思う。
自分を好きになれないから、自信がないから好きな人に対しても堂々とできないのだ。もう俺はそういうのほんとうにやめたいの。照れくささとかなんでかもうそうなってしまう部分を受け止めてくれる人にだけ出会えたらいいかも知れないか、そんな人ばかり好きになるわけじゃないんだし。
もっといい人に出会いたいし、もっと人と良好な関係を築いてみたい。がっかりすることが多かった自分の人生を裏切りたい。かつての自分がおれには無理とあきらめたことを覆したい。そのためには自分を磨くと言うことになると思うのたが、それだって束子で傷付けて血を滲ませるなんてことじゃないはずなんだ。恥ずかしいって気持ちで自分を守っていったい何を得られたと言うのだろう?もう一歩も二歩も先を見てみたいよ。飽きたんだよ、今までの人生なんか。
アルマジロみたいに空にこもるのやめたーーーい。変わりたい。もっと堂々と生きてみたい。
そう目の前にいるムカつく男に言いたい事は自分に言いたいことで、他人が自分の鏡なんて言葉もあながち嘘じゃないみたいだと思う。
あ、文頭のシャイだと言われた子は私からすると全然、問題のない感じだった。シャイと言うより大人しいだけじゃないかな?みたいな。あー、人生変わりたい。

ニートはハリネズミで男はハムスター

去年ほんの少しだけ頑張ってひきこもりをやめてニートになったワタクシ。ニートの部分が問題なんだよ、と思いながらもとりあえずひきこもりから少しだけ逸脱したのだった。
いい年した女が何やってるんだろう?としきり思うわけだがもうここまで落ちぶれてしまったら荒治療をするしかないし、今さらきれいなものだけ選ぶこともできないと思う。
これまでもネットでさんざん「ニートから脱する方法」等と検索してきたのだがそこには「恋をする」やら「彼氏を作る」やらがあり、そもそもニートの前に「ひき」がつく私には、だ か ら どーやって?と思うことばかりだった。
そんな私なのだが2018年、不覚にも好きな人が出来てしまったのだ。率直に言って彼はめちゃくちゃチャラい男に見えたたし、あー、危険危険って思ったのが初対面の印象だった。
「(女と)やりまくりたい」と5回言われれば「うん」と5回うなずくしかないほど彼の見た目は、あーまあそうでしょうね、分かりますとしか言えないほどそういう言葉がはまってしまう人だった。だからどんな下ネタを言われても、あーそうなんだ、自分とは違うリア充なんだなーって真に受けてしまったし「ラブホで女と寝たあとの写真です」なんて言われたらまさか嘘とか思わないようなそんな人だった。のだが、不覚にもいつの頃から私は彼が好きだなあと思うようになってしまっていた。だって彼は、見た目はチャラいがいつでも人の表情を機敏に察して笑いを取りに来てくれるようなところがあって、ひきニートにとってその勢いのある姿はただただ嬉しいものだったのだ。
あー早く明日にならないかな、寝る時間が惜しいな、なんてトキメキを胸にきっと西野かなに共感しまくれるような自分になってしまっていた。
そんな厳つい見た目の男はいつの頃からか、気分にムラが出るようなってしまって、全く話しかけてくれなくなったり、逆にたくさん話しかけてきたりする日々の差がどんどん激しくなっていってしまった。すごくたくさん話しかけてくれたかと思ったら目の前でフランス人を口説く時もあって、正直なところ恥ずかしながらも私自身の経験の乏しさから、試されているのかただからかわれているのか全く理解ができなかった。
私自身は間違いなく彼を好きではいるのだが、私がときめいている彼の姿はやっぱり、からかっているだけなのかな?と思う不安な気持ちとダメで元々なんだから笑わせてくれたらそれでいいんだよと言う気持ちとがあって、本当はもう好き避けなんかやめようって思っていたのにやめたかったのに、回りの視線とか結局のところ可愛いげのなさからコミュ障をいいわけに彼の話を無視してしまったりした。
「それコミュ障っていうか人によっちゃ傷つけるやつです、傷ついてないですけど」なんて言わせてしまった。
あー、自分自身の自信のなさから人を傷付けてしまったんだ最低だなとハッとした。いつも自分のことしか考えてなくて素直になれなくて傷付くのが怖くて、人の言葉の意味を汲み取れなくて、この男は自分よりもずっと遊んでるから何やってもいいってどこかで思ってしまっていたのだ。ずっと年下のこの人に甘えてしまっていたんだ。見た目の向こうにあるそうじゃない彼を私は見抜けなかったんだ。最低だ。
この一言は本当に言ってもらってよかったと思うし謝りもしたが、当然ながら彼との距離はどんどん開いてしまって笑うことも話すことも目を合わせることもなくなり、微妙な空気が流れたままもう二度と会わない人になってしまった。ばかだなーと思う。別に素直になったから成就したかもとかそんなことじゃなくて、素直にフラれたら、素直に終わったらそれはそれで別に良かったんじゃないかって思う。それができたらこんなに拗らせてないな、とも思うのだがほとほとハリネズミのような自分に呆れてしまった。
見た目だけなら彼の方がよっぽどハリネズミのようだったのに、彼の実態はハムスターのような普通のかわいい男子だったのに、傷付くのが怖くてチャラいチャラいって牽制してしまった自分が恥ずかしい。
そしてその度に「自分チャラくないっす絶対」って返してくれた彼が懐かしい、ついこの間のことなのにすごく昔のことみたいで悲しい。
あーもう自分のバカ自分のバカと悔しくて悔しくて仕方がないのだがひとつ気が付いたことは、エロさを全面に出す人に嫌悪感を全く抱かなかったことだ。
エロさを包み隠さないからこそ、チャラいと言う偏見を持ってしまったところもあるはずなのだが、あれーこんなにエロくてもこの俺が嫌悪感を抱かない人がこの世にいたんだな、と言う部分。こういう人にまた出会いたいなと思う。そして素直に大好きって言いたいなと思う。
人の見た目や言葉をそのままに受け取りすぎず、ちゃんと見抜く力をつけていかなくてはならないと思う。
きっとこの記事を公開したら、恥ずかしいなんてことしたんだーと思うに決まっているがあえてブログに公開しようと思う。

ひきニート今さらながらLINEとやらに登録してみた

LINEと言うものが世に出てきてからどれくらいが経つのだろう。
友達もいないしひきニートだし、SNSと言うものと関わることがないまま2018年も9月30日まできてしまった。
初めは「やってないんで」で、どうにかなるもんだろうと思っていたし、何より「LINE」状態の人がいないもので、別に~と距離を置いてきたのだ。そして当たり前ながら別に困ることもなかった。
そもそも、SNSに自ら飛び込んで孤独を痛感したくなかったのだ。
今月の初めだったか、外国人の男子に「LINE教えて」とナチュラルに言われてしまった私はキョドりながら持ってないと言う主旨を伝えたのだが、彼はめちゃくちゃおどろいていたし「じゃあ、いつもどうしてるのか言って」と言われてしまい、そこは触れないでほしいんだけどなーと思いながらも彼の怪しむ目は、いろんな意味で痛かった(笑)。
多分彼のその目は、「LINEしていない」と言う現実に向けられたものではなく「やっていないわけがない」と言う前提から来るものだったんだろうと思う。
わ、私嘘なんかついてないよ?持ってたら教えるよー!!
と思いつつ、なんとなく拒絶してしまった感があるものなのかなと思ったりもして、、。
リア充としては、沙汰されろと思ってしまうところだが、もうこのLINEと言うツールは世の中では、なくてはならないものになってしまっているのかな、と思った所存である。
とはいっても、友達がいないのがバレバレなのかな?と言う不安が消えないので入念に「LINEの使い方」などと検索していざダウンロードに挑んでみたものの、使い方が分からんし、そう言えば使う相手がいない(笑)。
何より、あってないような状態の電話帳との同期も一応オフにしたつもりなのだが、わずかばかり「知り合いかも?」と言う言葉が出てきてしまい、スマホを握りながら挙動不審を起こしてしまったのである。
こ、こ、これはわたくしなんかの連絡先を消さずにいてくれた希有な方がいた、ということでいいだろうか?
その中の一人は、元気にしてるかなーと思いながらも連絡できずにいた人だったので、そういう意味ではすごいなぁとは思う。
ただ何せ友達がいないので、、うわこいつやばい!とわざわさ思われそうな状態に首を突っ込んだようでとりあえず、速攻でLINEを閉じた次第だ。
いや、まあ元より用事ができてしまったので清水の舞台から飛び降りるような気持ちでとりあえず、ダウンロードしたのだが、まだその用事には、たどり着いていない。
こんなに、どうやって使うんだ?と思うくらいならば、思いきって「LINEの使い方教えてー」と言える可愛いげがあればよかったのになーと思う。
LINEがあってもなくても、どうせ孤独だし、とか思ってきたしそれも間違いではないとは思うが、今やあんなに驚かれてしまうのか、と思うととりあえず、備えておけばいいのかなーと思ったのだが、これでいいの?全く使い方が分からん。

スマホで文字が打ちにくい

あのー、なんかもう最後の更新から2ヶ月経つし、書くの遅すぎてバカじゃないのとか思うんだけど、
何かなって言うと、スマホで文字を打つのが嫌すぎるのかなーと思う。
こういうどうでもいいブログさえろくに書けないっていうのは、これだからだめ人間は、、とか思わなくもないので自己満足なりにちゃんと書いた方がいいのかなとか考えては考えることを繰り返している。
なぜ、スマホでの文字入力が苦痛なのかと考えてみると、多分きっとガラケー時代の、ブラインドタッチの名残のせいなんじゃないか、と思う。
物理的にボタンの境目があるから、ガラケー時代は文字の打ち間違いが少なかったんだろうと今ごろ気がついた。
画面を見ながら文字を打とうとすると、必ず打ち間違えるけど、画面を見ながら文字を打ちたい。
あーもうどうすればいいんだ、いったい。
そもそも、スマホの文字画面の幅、狭すぎじゃない?と思ったり、私の指が太いのかと思ったり。
あー、ガシガシと。ガシガシと、キーボードで文字を打ちまくりたい。できないんだけど。

ぼっちニート、伏見稲荷に行く

昨日は部屋が同じの女の子がエアコンのノイズがうるさいとのことだったので、寒いけど暖房をつけずに寝た。
他の部屋に入ったらすごい暖かかった(笑)。
なんか昨日はもうシャワーを浴びずに寝てしまったので朝シャワーを。
って、気を抜いていた。入ってびっくり。
シャワーもボディーソープも底尽きかけてるじゃん(泣)。
夜でも朝でも、残量は気を付けた方が良さそうだ。
洗濯物を干して、やっとでかける(笑)。今日は晴天だ。
京都駅まで行って、伏見稲荷大社行きを探していたら案内係のおじさんが「伏見稲荷はここからですー」と(笑)。
そんなに伏見稲荷に行きたそうな顔してたのかな?
ずっとここには来てみたかったんだ、ずっと。
ひきニートのくせに商売繁盛の神様のところに来るとかどうなんだ、とか思わなくもないけど。
なんだろー、バスを降りてからずっと眠たい。的屋と外国人だらけの道を抜けてやっと神社に着いて、お参りした。
いや、もうなんか信じられないくらい外国人だらけ。
千本鳥居を歩くんだけど、もうなんか外国みたい。
それはちょっと思っていたのとは違うけど、晴天で鳥居の中から空を見上げると、漏れてくる光がきれいで。歩いてる間、何故なのか鳥肌のようなものがとまらなかった。
池の辺りで猫を見つけたので立ち止まって話しかけると塀の向こうから美人三毛猫が歩いてきた。
一瞬はカップルに捕まえられた猫が男の手をくぐり抜けてこっちに歩いてくるではないか。マジか、マジなのか。
人差し指を突き出して、話しかけると猫は塀に飛び乗ってポーズを取ってくれた。もうね、美人さん完璧。降り注ぐ光の具合も完璧。もう少し落ち着いて写真を撮らせてもらおうと思っていたら、私の背後からものすごいシャッター音が!!
えっ、なに?どんだけ連写するの?私写ったの?避けたの?
少なからずとも人差し指は写ってしまっただろう。
指だけならともかく恥ずかしいんだけど~?
万一、誰かのカメラに写ってたら嫌なんだけど~?(困惑)
猫に話しかける(言葉じゃない)の見られてたのかな。。
咄嗟に顔を下に向けたり写らないようにしてみたけど、もう私がカメラ(スマホだけど)を出すタイミングはなかった。
周りは美人三毛猫の次なるポーズを待ってる。
いやちょっともう、なんかすごいなぁと思って。
多分時間にするとそんなにないんだろうけど、
フォトジェニックなもの、インスタ映えするものないかなぁ?って、、
そういう、熱意と言うか勢いみたいなものがすごいなぁって。伏見稲荷全体がもうそんな感じなんだよね。
今思えばもっとちゃんと遊べば良かったかな、周りとか気にせずに、とか思わなくもないけど。でもなんていうかー、
よくあんなに他人が写り混む状況で写真撮れるなぁ、、
撮っていいのかな、悪いかも?みたいな感覚ないのかなって思っちゃって、その場を離れてしまった。
私と入れ替わって、連写してたであろう外人のおじさんが人差し指を出しながら猫に近づいていたけど思いきり無視されてたな(笑)
なんだろー、ちょっと神様に目立ちたいの目立ちたくないの?と言われたような気がしないでもない。
千本鳥居に戻ると、どこまで歩くか戻るか、ちょっと迷ってしまう。せっかく来たからもっと、とかもう少しだけとか思ってしまうんだけど、だんだんきつくなってきて。
一休みしてまたもう少し行こうって思ったら、足元の棒に思いきりぶつかってしまい、痛い~っとなって戻ることに。
女性「これ全部行くとどれくらいかかりますかー?」
男性「全部行くと四時間くらいですかね」と言う会話が聞こえてきた帰り道。
いやー、これは準備しないと。食べ物、飲み物持ってこないと。それなりの覚悟がいるってことなんだなぁと思った。
帰り道はもう、猫はいなくなってた。
なんだろう、本当に来られて良かったと思うんだけど不完全燃焼と言うか、、、、。
なんでこんなにここに来たい(行きたい)って思うんだろう。
私も写真、撮りたかったけど結局、これっていう写真はなく、撮った写真はぼやけまくりだった(笑)。